海神社 Kaijin-sya


飛 風 抄


Hi-Huu-Sho
〈1〉

海神 悠
Wadatsumi, yuu

1]

 キ―――――ン。
 高周波の唸りが耳に不快な残響を残して、剣は飛んだ。飛将の血と、幾許かの肉と共に。
 左腕の上腕半ばから血が噴き出し、耳が半分千切れている。
 将独特の身鎧は、将にだけ許された、特殊な極薄の、強靱で軽い合金で出来ている。各将の紋を崩した浮かし彫りが要所に散らばり、これも強靱な鋼の飾り紐で編まれたそれは、白銀に水浅葱の線刻も優雅な、装飾性の高いもので、飛将の青のまさった長い黒髪をますます目立たせた。
 飛将は界の十二人の将のうち、ただ一人の女性である。準将級の車の位や、将の幕の中には女性も多い。幕の半数以上が女性という将もある。だが、その多くは、知的能力を買われてのことだ。将の条件は、まず武力。それが女性の将の登極を阻んでいた。
 飛将は将の家に生まれた三男二女の末子である。呼称は楓。楓が二十歳を迎えた夜、父は一月後に次期飛将を決めると言った。すでに嫁いでいた姉を除く四人で行われたトーナメントの勝利者は、女性たる飛将楓その人だった。
 今、飛将の体を覆う白銀は、血と肉と汗と脂で汚れ、濁っていた。体中の至る所から血が流れていた。肉の内部にも、外部にも。長い緊張を強いられた四肢の筋肉が、今、死の淵を越えたとき、その緊張を緩め、撓むように萎えた。前のめりにぐらりと膝が落ちた。右腕で支えると、激痛が背から首、頭を突き抜けた。そのまま、ずるずると腰から倒れていく。それでも飛将は血に濁る視界の中に、その相敵の姿を捉え続けた。
 終わったのだ。
 飛将の胸にあるのは、ただ解放と安堵だった。闘うことで、すでに名誉は守ったはずだ。敗れることは、恥ではない。死もまた恐怖の対象ではなかった。四肢のすべてが損傷を受け、血を流し、骨は軋み、あるいは折れ砕け、左腕に至ってはもぎ取られる寸前であったが、幸いにして内臓に外傷は受けていなかった。声は、出た。 
 「殺すがいい! さあ、一突きだ。どうせこの傷だ、長くは保たぬ。一思いに決着をつけるのが、情けというものだ。さあっ!」
 相敵は冷ややかな瞳を細めると、不敵に笑みを浮かべた。
 飛将の胸は、その笑みに軋むほどの痛みを感じていた。どのような意図で微笑んだにせよ、相敵たるその人の笑みを見たのは、本当に久方であった。帰らぬ日々、晴れやかで美しく、悔悟と苦しみに悶えることのなかった日々の、それは象徴だった。どのような質にしろこの笑顔を眺めながら死ぬのも悪くはない、半ば自嘲気味にそう思った。だが、相敵はまるでその身の化身のような美しい長剣を一振りし、血を払うと、ゆっくりと鞘に納め、そして言った。
 「…殺しはせぬ」
 「なにっ!?」
 「…放っておいてもその傷では動けぬだろうし、おそらく腕の神経網はズタズタ…使いものにはならぬ…しかし、私にもその血を止めおくくらいの術は心得ている」
 青年は不敵な笑みを口の端に残したまま、目を半眼に閉じると、口中幾言かを呟いた。瞬間、楓は身体を炎に焼かれたような錯覚を覚え、不覚にも両目をつぶったが、それはほんの数瞬のことで、気づくと流れ出る血は止まり、身を刺す激痛もかなり緩和されていた。もとより界の秘顕によって守護された将の身ゆえ、生命の水がその身より流れ出る速度は、余人よりも緩慢である。楓は小さく息を吐いた。
 「さりとて我々がいかに修行を積んだ身であろうと、生身の身体に変わりはない。やがては息も絶えようがの…」
 なんとこの青年は美しいのだろう。
 動作、身のこなしの優美さは生まれついてのものだった。飛将の元を離れていた間に、それはますます洗練され、飛将は闘いの間でさえ、賛嘆の念を押さえきれなかった。自らが動けなくなるまで、いや、外傷よりも何よりも四肢の筋肉の限界を越えても闘いを続け、決して一思いの決着を迎え入れなかったのは、生への執着ゆえではない。ただひたすらに相手の闘う姿を見ていたかったからだ。自らの血しぶきを浴びながらも、飛将は痛みよりも多く相手の技を愛しんでいた。
 それは、時ここに至っても飛将の胸を去らぬ思いであった。飛将は相手の意図を測るより、姿を見られる時を得た幸福を思っていた。
 しかし、将としての尊厳は守られるべきものである。
 「…それまで生殺しのまま眺めようと言うかっ…」
 口から出た言葉には、諦めの匂いが混じっていた。相敵は一層口元を歪ませた。ふと相敵の目に映る自らの姿を思う。虚しいことだが、それでも生きている限り感情というものはあるものなのだ。傷つき血と汗にまみれた自分は、決して見よいものではないだろう。おそらく醜い姿を晒しているのだ。立派な闘いであった。私は持てる力の限りを尽くした。その上での姿に恥はない。それでも、一思いに殺され、一瞥だにせず去られたほうがよかったのかもしれぬ、そうして欲しかった、という思いがよぎる。その端から、私は執着している。この、見るという行為に。この期に及んでさえも、その喜びを感じている。この相反。将としての自分と、素直な心の望み――。
 「…なんという…かつてお前如きものに目をかけた己を思うと、目も眩む思いがする…」
 私は将である。将であるからこその闘いだ。将としての決着を着けねばならぬ。
 飛将は近づいてくる気配を不審に思いつつ、相敵から目を逸らし、自らの矜持を守るべく心の準備を開始しようとしていた。ところがその開始も待たず、相敵は飛将の傍らに膝まずくとその身体に手を伸ばした。
 「何をするのだ!?」
 飛将には相手の真意が解らなかった。首に纏い付く飾り緒を解き、すでに外れ気味であった冑を投げ捨てた。音が地を伝わって頭に響く。とうに四肢は動かぬ。抗うことも出来ない身から、一つ一つ身鎧のパーツがはずされていく。
 「…私は常々思っていたのだが、男でも手に入れることの難しいこの将の身鎧に収まっているのは、果たして本当に女性のものなのだろうか…とな」
 将としての位の尊厳を無視されても、飛将は闘いの目的そのものが将への反逆であれば、それも仕方のないことだと自らを納得させることが可能だった。しかし、将の位だけでなく、己れ個人の尊厳まで無視されるのは耐え難かった。ましてや飛将は女性である。いくらなんでも糾弾されるべき振舞いであるはずだ。声もなかった。
 ここまで…、ここまでの屈辱を受けるほどの過ちであったか。この青年がここまでの振舞いに及ぶほどの仕打ちを私はしたのか? それとも私ゆえの憎しみでなく、ただ精神の荒みが行わせた破廉恥さなのか? それとも、それともこの姿が、この振舞いが本性であったのか?
 もし、もしそうであるなら、飛将は長い悔悟の幾分かを昇華せしめることが出来る。
 が、すべての問いは、飛将の頭の中で答えを得られず散じていく。すでに身にまとうているのは、薄衣の下着のみであった。
 「恥も分別も失くしてしまったのだな…それとも始めからそのようなものに痛痒を感じぬ身を、私が見誤っていたのか…」
 答えを得ようと思って発した言ではなかったが、反響は勝者のものとは思えぬ苦さを秘めた、低い呟きであった。
 「……貴方が……そうさせたのだ……」
 血に汚れた白銀の身鎧の陰から現れたのは、白い柔らかな膚だった。外傷こそ少ないが、その肉には幾つもの剣戟を打ち降ろされた跡が、赤く散っていた。流れる血は薄衣を紅に染め、膚にまといつき裸形の線も露わにしていたが、その身は固く引き締まり、鍛え上げられた無駄のない筋肉は、荒い呼吸に息づき、傷ついた若い牝鹿を思わせた。
 「……満足か?」
 言葉もなく、ただその身を眺める青年の視線に、耐え切れず飛将は言い捨てた。止めたかったのだ。身を切るような視線の刃を。その刃は闘いで血肉を削った剣の痛みよりも、飛将を突き刺したので。だからといって、この刃の前に弱音を吐く気は毛頭なかった。飛将は顔色一つ変えずに相敵の目を見つめ返した。
 相敵は始めて目を逸らした。
 「…この身のままであれば、このような闘いなど無意味であったろうに。何故女の身で将になぞ…」
 かつて将たる私の足下に忠誠を誓った同じ口でその台詞を言うのか。飛将は無性に悲しく口惜しかった。男であればよかったのか! 男であればこのようなことにはならなかったというのか!? 女性の身を恥じたことはなかった。自分は自分である、そう思っていた。ただ、悲しかった。
 「……この身には剣戟の火花より、素手の愛撫のほうが似つかわしいと思うがな……」
 その言葉の意味を思い至ったとき、相敵の容赦の無さに飛将はまさしく目が眩んだ。一瞬目の前を覆った闇の中で天地がぐらりと逆転した。悲しみの次にもたらされたのは怒りだった。女性である自分の運命を悲しむ自己憐憫を吹き飛ばす怒りの嵐だった。
 「……どこまで辱めれば気が済むのだ……っ」
 「……勝手にするがよい、私は敗者の身、この身も今は勝者たるお前の戦利品の一つにすぎぬ……」
 そうだ、勝手にするがよいのだ。この身をお前如きがどう汚そうが、私の精神には、その指一本も到達できぬのだから。
 「…なるほど…将たる資格の身鎧ももがれ、ただの女性たる身に相応しい扱いをほどこすとしよう…」
 言いざま、相敵の手が薄衣をはぎとり、その内を滑るのを感じた。――が、それが何だというのか。これも闘いの刃の一つなら、私は将として確かに受け止め、屈したりはしない。
 飛将は相手の目を見つめ続けた。ただ、それだけだった。


 「………顔色一つ変えぬとはな……」
 数刻後、飛将の身からその手が離れたとき、そう言った相敵の顔はかすかに蒼ざめていた。
 飛将は初めて相手を蔑視することができた。負い目を感じずに、相手を見ることができた。死を迎えるまでには、憎むことも可能かもしれない。
 「肉はどこまでいっても肉だ。このようなことで私を征したつもりならば愚かなことだ。私を追い、将となってもそのような未熟さでは、お前が私の後を追うのも間近いことであろうよ」
 ますます相手の顔は蒼ざめていくようだった。相敵はその手で剥ぎ取った身鎧の下に着ける、縦糸に金属糸を織り込んだブラウスを引き寄せると、まるで嫌悪すべきものででもあるかのように、顔をそむけたまま、飛将の身体にかけた。
 まるで腐肉に対する態度だ、とそう思ったとき、飛将の心にまた悲しみが滲み出してきた。相敵は飛将から離れ、背を向けている。
 何が悲しいのだろう? 女性ゆえにこの身に受ける、いわれなき辱めが? それとも我が身を離れた皮膚の熱さが? 私を見下ろす嘲笑の目が? それとも、顔を背け、背を向ける、この姿がか?
 「………将…か……。貴方を斃し、将の身鎧を手に入れ、界の秘顕を授かる…」
 淡々として紡ぎ出される青年の間近き未来。
 飛将は燦然と輝く身鎧に包まれたこの青年の無骨な、けれど優美な姿をまざまざと思い浮かべることができた。その圧倒的な美しさの前に、飛将はそう言い放った青年の、まるで他人事のような物言いに、かすかに混じる自嘲の香りに気づかないでいた。
 「たいした出世であることよな! 我が翼下に居てはかなわぬ望みであった。私の元を離れたのは賢明であったよの……。竜宝剣の封を放ち、我が苑の半ばまでを壊廃しさしめ、珠を手中にした手腕、並々ならぬ力と認めようぞ」
 物言いは皮肉に満々ていたが、その言に偽りはなかった。闘いの後の、このバカバカしい繰り言の中で、飛将が口にした唯一の真実だった。
 「それは……許しの言葉と受け取ってよろしいのか?」
 青年は振り向くと落ち着いた言葉でそう問い返した。顔は元の色を取り戻し、笑みはなかったが、代わりにその身に相応しい真摯さがあった。それが逆に飛将を戸惑わせ、不安にさせた。
 「ハッ…今さら何を求めるのだ」
 吐き捨てるように言い放った。この溝は埋めてはならぬ溝なのだ。お前が嗤うのを止めたのなら、私が嗤う。
 「私はもう将でもなく、死に瀕したただの女性の身ぞ。私がお前の主であったのは、もうあまりにも遠い昔のことだ。今さらお前なぞに主としての扱いなぞ、望まぬわ」
 言いながら飛将は思い出していた。その遠い昔を。飛将にとって、くり返し夢に見たそれは、遠くも昔でもないのであるが、現状のこの闘いを思えば、最早二人の歩く道は遠く隔たっているはずだった。
 「…どころか! どうしてこのような身でお前をかつて臣下としたことを悔悟せぬと思われるのか!? 身の所業を省みるがよいっ!」
 言葉は青年を突き離し元の距離へ立ち戻らせるために吐かれた。将としての楓にとって、この相敵は決して許すべき存在ではなかった。そしてそれこそが、遠く隔たってはいるが、輝かしい未来へと彼の道を導くものだと信じていた。どちらかしか先へ行けぬのならば、進むべきは自分ではなく青年だと解っていた。
 飛将は彼の力を信じていたので、ただ待てばよかった。将として力を磨き、技を磨き、迎え討つその日を、将として待てばよかった。
 道を分かった時から、飛将はそのために生きてきたのだ。
 しかし、飛将の放った非難も、目論見通りの効果を上げてはくれなかった。
 苦渋の表情が青年の顔に刻まれた。飛将が望んだのは怒りであったのに。
 確かにかつて、飛将の元にあった頃の青年ならば怒りにカッとなり、剣の柄に手をかけるぐらいはしたかもしれない。当時、飛将は青年の理知も熱情も共に好しとしていた。道を分かったのは、その熱情ゆえのことだと思っていた。飛将は、後足で砂をかけられた立場であり、将としては許すべくもないが、心の内では青年の熱情を否定してはいなかった。
 飛将の元を離れ、今再び、こうやって向かい会うまでに流れた歳月は、飛将にとって一とすれば、青年にとっては、十を数えるほどの重みがあったのだ。洗練されたのは、ひとつ剣の技量だけではない。
 「……何故……私でなく留羅の如きを車として選ばれたのです?」
 「…私は…私は留羅にも劣る身でありましたか?!」
 言ってはならない言葉だった。二度と触れてはならないことだった。この問いを聞く前に、一刀両断に切り捨てられるべき飛将であった。
 飛将に答えられようはずもなかった。無表情たること。将の尊厳は死ぬまで守り通してみせるつもりだった。――すでに闘いに破れ、将としての資格も、剥ぎ取られた身であっても。将の位の尊厳はまだ、守られるべきものだった。そのために、生きてきたのだから。
 「……それほど、奴を愛でておりましたか?」
 この嘲弄。飛将にとって、その言が苦渋に満ち満ちていたことなど、問題外であった。なにがバカバカしいといって、この誤解ほどバカバカしいものはなかったが、さりとて、どうしてそれを説明できよう。
 「…貴方には解るまい。あのとき私が受けた屈辱を。技で、力量で、それを支える精神、いや、魂でさえも、比肩されて自らに劣るところなどないと信じていた! いや、今でも信じている」
 是、是、是! その通りだ! お前は正しい! そう叫びたかった。解っている! 解っているのだ!
 「…私は…私は……」
 「…貴方を信じていた。…貴方が…そのような選択に際して、私情を挟むような方ではないと信じていたのです」
 お願いだ。今の私の願いはただ一つ、死、だ。今の私に出来る償いは、お前の手にかかって死ぬことだけだ。私がお前に差し出せるものは、私の命しかない。そのために生きてきたのだ。千を越える日々、千を越える夜々の悔悟と苦しみの挙句、またもやここへ行きつくのか。
 お前の手にかかって一刀両断のもと、絶命すべきだった。幾度もその機会はあったのに、私は生きている。青年もまた、私を生かせている。どうしてこう人生とは、都合良く行かぬものなのか!
 飛将は嘆きたかった。己の不手際を。自分のものでありながら、最期の最期まで自分の思うようにならなかった己の生を。
 「…貴方は私を裏切り者と呼ぶ。この界で私は竜の子(罪の烙印のあるもの)として生きていく身だ。どのような立身出世も、その罪の印を消してはくれぬ。……」
 竜の子――お前がそう呼ばれるのなら、その言葉はいつか賛称に変わるだろう。そう言いたかったが、言えなかった。言えない言葉が、また一つ飛将の心に増えただけだった。
 「……主の恩を仇で返し、師の教えに背き、法印の封を解き放ち、邪の力を借りて宝珠得し竜の子よ…そう蔑まれて生きてゆかねばならぬ…」
 悔いているのか? ここまで来て? 一体それが何になる!? …邪の力ではない。私はそのことを知っている。しかし、ひとつそれが正しくとも、己が来た道を悔いるのならば無意味ではないか。
 「……それもその身の選んだ途であろう…」
 「今、将の位さえ手に入れ、お前の栄達は疑うべくもない。なにを惑うておるのか…! ……私の死を前にして赦しを請うなど笑止なことじゃ!」
 反応はまたもや飛将の予想を裏切るものだった。闘いを開始してから今まで、初めて青年の冷ややかさが破れた。
 「赦しだと…?」
 「始めに裏切ったのは貴方ではないか!」
 青年の頬は、少年のように紅潮し、目には怒りを湛えていた。
 「神聖なる選択に私情を挟み、私を忌避したのは貴方だ! 私を絶望の淵へ追い落とし、全ての希みを奪い去ったのは貴方ではないかっ! どうして私が貴方の赦しなど請わねばならないのかっ! それこそ笑止だっ!」
 まさしくその通りであった。位階の栄達を、出世の道を目指す、男の本性を、飛将は軽く見ていたのだ。いつかは――とは思っていたが、まだ先に延ばせるものと思っていたのだ。自らの翼下を離れるまで思い詰めた望みだったとは、まったく予想の外であった。
 「……それほどまでに車の位を欲していたのか」
 我が翼下を離れても、栄達したかったのか、ただそれだけが密かな悲しみであった。もちろんそこまで追い詰めたのは自分だ。その責は負う。その意味で、将たる自分の浅はかさが招いた結果であり、青年に負債はない。だが、しかし、青年が剣を手に苑を去ったときの悲しみと淋しさは、増えもせず減りもせず、飛将の心の奥に在り続けた。
 「…車の位…?……もちろんそれも欲しかった…」
 「…それが証であったからだ。証であると信じたからだ。……生まれ落ちたその瞬間から、この身は貴方のものだった。界の将の門位に生まれた宿命とはいえ、私はその運命に感謝の念こそあれ、この身に疑いや不足など感じたことなぞなかった。……貴方に仕えることは喜びであった。門位に登り得る最高の地位としての車の位は、私が貴方に示した忠誠へ、貴方が与えられる最高の褒賞であったはずだっ!」
 「…………」
 正しさに弾劾される苦痛は、痛みそのものよりも我慢することゆえに増幅する。飛将は吐き気を感じていた。かつての自分に。その未熟さ、思慮の足りなさ、分別のなさ、思い上がりに。青年の乗り越えてきた苦難の途のりの間、飛将が養ってきたのは、それらを耐えること、全ての思いを殺すこと、いつどんなときでも将たる冷静さを失わぬこと、ひたすら自分を押し殺すことであった。それはほぼ完璧に実行に移され、今では飛将といえば、虫も殺さぬ顔をして、一度戦場に出れば眉一つ動かさず屍の山を築く、氷剣の美将として界に聞こえていた。
 血の気の引いた白い面に走る幾筋もの流血の痕跡。内面の奥悩がどうあれ、大理石に刻まれた美姫の如きその白き面に、表情の変化は無く、青年は次第に焦りを感じていた。飛将と同様、彼にも言いたいことは山程あった。
 「違いますか…?」
 「違わぬ…」
 無機的な音声であった。その冷たい声と無表情さは、青年の冷静さを吸い取って出来上がっているようであった。
 「……あのときの選択の相手が、留羅でなく天香であったなら、私とて納得して下がることも出来た…。だが、貴方は留羅と私を競わせ、留羅を選んだのだ…!」
 「正当な力よりも、邪まな愛情に聖なる選択を委ね、汚したのは貴方だっ! 全ての法を裏切り、私の忠誠と真心の全てを裏切ったのだ! その貴方が私を裏切り者と呼ぶのかっ!?」
 裁くがいい。糾弾するがいい。科あるは私だ。沈黙は是認だ。そう思ってくれればよい。私に返答を求めるな。答えられはしないのだから。
 飛将は今や冷静だった。
 「…………」

  「飛風抄」<2>へつづく…>>>>>

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| 飛風抄 | 海神社 Kaijin-sya | 第一版 | 2003.4/030907 |

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