朱映
SYUEI
<1>
海神 悠
WADATSUMI, Yuu
その日は快晴だった。
まだ紅葉には早い山々が最後の緑を見せつけている。くっきりした山の稜線が薄青色をした秋空を際立たせていた。日はとうに中天を下りて陰り始める前の眩しいほどの陽光を振りまき、東に向かう車は陽を浴びた山々を眺めながらの気持ちの好いドライブを続けているはずだった。
そんな清々しい秋日和の夕刻だったが、車中には外の明るさを冷めた目で眺める気まずい沈黙が漂っていた。運転者は浅野まこと。外国製の高級車に似合わず、まだ少年とさえ呼べそうな若さの彼は、前方を睨むように見据えた整った顔立ちに日本人離れした白い肌と明るい髪の色、そして折からの傾いた陽に透ける大粒の茶色の瞳をしており、服装や物腰からも外の国の匂いをさせていた。
浅野まことは祖父に英国人を持つクォーターであるが、海外勤務の両親の元、生まれこそ英国だが日本育ちの日本人である。両親の転勤に合わせ中学高校を寄宿生の男子校で過ごし、卒業後両親の暮らす英国へと移って向こうの大学へ通っていた。なのにせっかく入学した大学生活を放棄して二年半の英国生活にピリオドを打って帰国したのが、つい半月前のことである。そのため彼は日本の道路事情にまだ不慣れであり、慎重にハンドルを操作していたが、その身にまとわりつかせた緊張はそのためだけには大げさすぎた。助手席に座った同じ年ごろの青年は、そんな運転者の様子をそっと窺いつつもおとなしく前を向いて無言で居た。
多田光克は浅野まことと同じ中学高校の同期生であり、寄宿制の学校で寮の同室者として六年間寝食を共にした仲間でもあった。今日同じ車中の人となっているのは、前日に行われた学校行事の最中に偶然出会ったからである。そのまま多田光克と一緒に来ていた寮のもう一人の同室者であり同じ剣道部の仲間でもあった長沢広行の実家を三人で訪れての帰り道なのだ。
浅野まことも多田光克も今は東京に暮らしている。多田光克は現在都内の大学に通う三年生であるが、浅野まことは英国の大学に一年在籍したものの、やはり日本の大学で学ぶことを決め親の反対を押しきっての帰国を実現したばかりであり、これから大学を受験し直さなければならない身だった。二人は昨日二年半ぶりに母校である志峰学院高校の行事、峰珠祭の会場で偶然再会し、そのまま懐かしさに長沢の実家で夜を徹して旧交を暖めあったのだった。
中学高校時代、二人は学校中でも有名な仲の良い二人組だった。互いに互いを親友と思っていたはずだ。しかし、今、車中の二人には懐旧も会話もなかった。あるのは気まずい沈黙と緊張であり、まるでバスに乗り合わせた赤の他人同士のように、長い間無言状態が続いていた。
光克は、話しかけようとは思うし、その努力もするのだが、声に出そうとまことの方を窺うと途端にその気力が萎えてしまう、ということを繰り返していた。自分が話しの接ぎ穂を作ろうとしていることに気がつかないはずはないのに、まことはそれを無視している――そう、光克は感じていた。
光克は、二人きりでのこのドライブが嬉しかった。たわいないことだったが、話したいことがたくさんあった。まこともそうだろうと、勝手に思っていた。
昨晩、光克は長い会話の途中でリタイアしていた。飲み過ぎて気分が悪くなったのだ。今日、目が覚めたのは昼だった。きちんと服が着替えられていて布団に寝ていたが、全くその記憶はなかった。恥ずかしかった。昼食の席で散々からかわれたが、何も言えなかった。かなりひどい頭痛がしていたが、そう言うとまことは車で家まで送って帰ってやると言う。光克は内心舞い上がるほど嬉しかった。山梨の長沢の家から自分の住む都区内のマンションまで、休日の今日なら数時間はかかるだろう。その間、まことと二人だけで話しが出来る、それだけで光克は幸福だった。しかし――。
もう、長沢の家を出て、二時間近くが過ぎている。高速に乗るまでに道を間違えて手間取ったので、時間の割にはあまり東京に近づいてはいなかった。そろそろ行楽帰りの車が合流し始めてしまう、まことは少しいらついていた。早く光克を家まで送り届けてしまいたかった。あるいは混雑の具合によっては八王子かどこかで駅に降ろしてもいい、とにかく早く二人きりの状態に終止符を打ちたかったのだ。それなのに、道路はますます混み始めている。そういう運転自体もまことには初めてのことであり、焦ったって仕方がないのは判っていたし、隣に座る光克同様焦る必要も全くなかったのだが、それでも気持ちの焦燥感を抑えるのは難しかった。
緊張していた。なぜ緊張するのか自分でもわからなかった。夕べも今日も、長沢の家で皆で話している間は、普段と、昔と変わりなく居られたのに、長沢たちと別れ車に乗り込みドアを閉じたその瞬間から、もう、まことは緊張していた。
シートベルトを締めながら隣に座る光克に出していいか確認した時、妙に嬉しげなあいつが珍しく微笑んで甘えるように「うん」と頷いた。
…僕は、その瞬間からいたたまれなくなった。笑い返そうと思ったが、出来なかった。表情は強ばって、僕は慌てて前を向いて運転に集中した。そんな僕の緊張を知ってか知らずか、あいつにしては珍しいことに、いろいろ話しかけてきた。志峰の時の誰それが今どうしてるだとか、長沢と旅行をしたとか、そんな話しだ。僕は答えてやるべきだとはわかっていた。だが、緊張とストレスでだんだん切れそうになっていった。聞いていられなかった。答えなんか返せなかった。
長沢が教えてくれた簡単な道を間違えて、また、国道に戻る羽目になったとき、とうとう僕は言ってしまった。
「――うるさいな、少し黙れよ、まだ日本の道に慣れてないんだから。」
……きつく言ったつもりはなかったが、充分きつい言い方だった。口にしながら後悔していた。こんなことを言いたいんじゃない。
光克はその後、二度と話しかけなかった。たまに意を決して話しかけようとするのが、僕にもわかる。その途端僕の方にも緊張が高まる。それが伝わるらしく、あいつはそのまま、何も言わない。そうさせているのが自分だという自覚はあったから、僕はますますイライラしてゆく。自分にも、あいつにも。光克の顔から笑顔はとうに消え失せ、見覚えのあるきつい表情に変わっている。あいつがあんなふうに笑いかけてくるなんて滅多にないのに、僕はまたもや、自分をコントロールできない、そのことのためだけにぶち壊した。自己嫌悪と言う名のついた怒りが身内を駆け巡る。
…隣席の運転者がどういう状態か、やることも何もない助手席ではわからないでいるほうが難しい。まことの焦燥感が募るほど、光克の中で不安感が増殖してゆく。余計なことがどんどん浮かんでくる。たった数時間前幸福に笑っていた記憶がまるで遠い過去のことに思えてくる。何もしていないのに心臓がどくどく言い始める。沈黙が心臓を圧迫するような気がしていた。
なんで話してくれない?
どうして怒ってるんだ?
理由を言ってくれよ?
やっぱり俺といるのは嫌なのか?
昔に戻れたと思ったのは、俺の思い過ごしなのか?
まだ許してもらえてはいないのか?
そんな疑問符付きの台詞が頭に浮かぶ。聞いてしまいたいとも思うが、怖くて聞けない。結局無言でいるしか出来なかったのだ。
「………。」
言おうとした台詞をやはり口に出来ずに、光克はまことの横顔を見ていた。まことはまことでそういう光克に息苦しさを感じざるを得ない。
「……そんなに見るなよ。…気が散るだろ。」
「わ、悪い…。」
慌てて早口でそう言うと、光克は片側の窓の方へ向いた。ちらりとそんな光克を目の端に収めたまことには、その態度がまるでこれ見よがしなものに見える。非が自分にあることをどっぷり承知していたから。
「………なんか、それじゃ、僕がいじめてるみたいじゃないか。言いたいことがあるなら、言えばいいだろ!?」
イライラは隠そうと平板に言ったつもりだったが、語尾の強さは苛立ち以外の何ものでもなかった。
「………。」
「………なんとか言えよっ。」
「………笑わないな、まこと。」
「え?」
思わずまことは光克を振り向いた。
「長沢ん家を出て、俺と二人きりになったら途端に笑わなくなった。」
険しい顔でそう言う光克を見ると、まことはまた視線を道の先へと戻した。
「別に、おもしろおかしい話しをしてたわけでもないし、僕は運転してんだぜ? そんなに笑ってなんか、いられるか!」
「じゃあ、次のインターで休もうぜ。さっきから一度も止まってないだろ。」
「……そんなに疲れてやしないよ。」
「俺が休みたいんだよ!」
「………わかったよ。」
サービスエリアの駐車場は、まだ空いていた。西の空が夕焼けに染まり始めている。
「なんか食うか?」
まことはキーを外しながら光克に聞いた。
「ああ。」
「先行ってろよ。トイレ寄ってくる。」
「ああ。」
車から離れて歩きながら、まことは妙に陰険な光克の態度に、イライラするというよりも不安だった。非難されても、あいつが怒っても当然だ、そう思う。しかし何を考えているのか本当にはわからない。噛み合わない会話。こんなことになるなんて。まことはそう思っていた。いったいどういうつもりなのかわからない。どんな態度を取っていいのかわからない。だいたい自分がわからない。わからないから不安になる。昔だったら絶対にあり得ない行き違いが起きている、そう思うことの不安。
「……ちくしょうっ!」
まことは思わず愚痴っぽく呟く自分にうんざりした。
朱映 <2>へつづく >>>>>