マース・赤い星-MARS~the red planet~- <1> 海神社 Kaijin-sya
マース 赤い星
MARS~the red planet~
<1>

海神 悠
WADATSUMI, Yuu

1]香 子 -きょうこ-

 その建物は不自然だった。東京都内、山手の坂の多いことで知られる区の、その数ある坂の途中に建つさして大きくもないマンション。外観に感じる不自然さといえば、ベランダの小ささ、目だたなさ、それにいやに重い感じのする壁面のタイルくらい。駐車場への入出口がぽっかり開いた様は住宅というよりオフィスビルのようだったが、それにしてはエントランスが目立たなすぎた。坂の勾配を利用して二重にガードされた通路の奥にある、この類いのマンションにしてはやけに広いエントランスホールの反対側には、駐車場からの別の出入り口がある。その脇は管理人室。大理石でこしらえた必要以上に重厚なエントランスホールは、外からは見えない。せり上がった天井の一部から豪華な照明器具が下がっている。その下だけが妙に明るく、周囲は外部に近いというのに薄暗い。なんのためにある建物なのか容易に想像がつかない不可解な建物だった。
 香子のそのマンションに対する第一声は
「なにこれ? なんて悪趣味なの。」だ。
 始めから幸先は良くなかった。先に立ってタクシーを降りた香子の後ろからまだ小さな男の子がのろのろと降りて香子の脇へ少し離れて立つ。香子は振り向きもせず建物を見上げて眉根を寄せていた。男の子――多田光克は、香子を見上げていた。
 しばらくしたらここでこの人と暮らすのだ。二人きりで。怖い。逃げたい。戻りたい。…戻れるなら、誰も苦労はしない。それぐらいはわかっていた。もう、母はこの世には居ないのだ。死んでしまったのだ。もう、この人と居るしかないのだ。振り向いて走ってどこかに行ってしまいたい。でもどこにも目的地は、ない。結局そこへ行き着くのだった。もう、ここしかないのだということに。
 一月前にお母さんが死んだ。病気で入院して一週間目に学校に連絡が来た。一生懸命走ったけど、僕が行ったときにはもう、すべて終わっていた。ベッドの脇に立っていた女の人が僕を抱きしめて泣いた。それからずっと僕と一緒にいる。香子さん。僕のお母さんの妹だそうだ。僕の叔母さんになる。「叔母さん」という人がこんな若い人だとは思わなかったから、なんだか不思議だった。だまされてるような気がした。「叔母さん」は「香子さんと呼んで」というので、僕はほっとして「香子さん」と呼んだ。香子さんは、まだ大学生だった。
 お葬式をやって、僕はお父さんにも会った。今までも何度か会ったことのある人だ。うちにも来てた。ああ、そうか、と思った。お父さんはいないんだと思ってたけど、本当はいたんだな、と思った。嫌いな人じゃなかったから、少し安心した。…香子さんは好きじゃないみたいだ。お父さんと話をするとき、いつも喧嘩してるみたいに話してる。
 僕はずっとお母さんと二人で暮らしてきた。親戚の人とかも会ったことがない。お母さんが死ぬまで「叔母さん」が居るのも知らなかった。「叔母さん」がお母さんの代わりなんだってことは、わかった。子供が一人で暮らせるわけないし、「叔母さん」と一緒じゃなきゃいけないんだってこともわかってる。でも、「叔母さん」は知らない人なのだ。僕はこの人を本当にお母さんの代わりにしていいんだろうか? 香子さんは本当に僕のお母さんになってくれるんだろうか?
 僕には自信がなかった。だって香子さんは、全然お母さんと違う。姉妹なんて嘘なんじゃないだろうか? そのうちに「この子、違います! 間違いです!」とか言うんじゃないだろうか? そうしたらどうなっちゃうんだろう? お父さんが来てくれるのかな? でもお父さんにはちゃんと別に子供がいるんだ。ちゃんと僕は知ってるんだ。お父さんの家には別のお母さんが居て、僕のお姉さんが居るんだってこと。だからお父さんとは一緒に暮らせない。香子さんが居なくなったら、僕は一人になっちゃうんだ。
 不安さから目の前にある香子の手に、そっと手を伸ばす。手に触れた途端、香子は驚いて振り払うように手を引いた。光克もあわてて手を引っ込める。まじまじと香子は光克を見て、言った。
「もう、手なんかつなぐ年じゃないでしょ。」
 光克は驚いて、それから恥ずかしくなった。二度と手はつながない、と決めた。今度引っ越して転校する小学校には二年に入る。一年生の時は六年生が手をつないでくれた。でも、もう二年生になるのだから、大人と手をつなぐ必要はないのかもしれない。
「さあ、入りましょ。いつまでも外で見てたってしょうがないわ。」
 さっさと先へ立って入ってゆく。管理人室に声をかけた。
「八階に入居する村上ですけど。開けていただけますか?」
「ホールでお待ちください。」
 返事があって、すっとドアが開く。しばらくすると管理人らしい年配の男性が出てきた。鍵を持っている。
「管理人の中山です。お待ちしてました。多田さんから聞いてます。いつからですか?」
 ちょっと会釈すると勝手にエレベーターを呼ぶ。線刻の入ったステンレスのドアが開いて中に入ると、正面は暗い鏡面仕上げで、天井には華やかな照明器具が下がっていた。
 気後れしていた光克は乗りそこねて、閉まりかけたドアに慌てて叫んだ。
「待って!」
「えっ?」
 ドアが開く。慌てて駆け込む。香子は飛び込んできた男の子を膝に受け止めた。瞬間、愛しさが湧いてくるのを、香子は意志で押しとどめた。
「あぶないでしょう。落ち着きなさい。」
「…あの、お子さんですか?」
 中山と名乗った管理人が聞いた。
「いいえ、甥です。」
「…ふーん…。」
 いやな感じ。直感的に光克は思った。なにか悪いことが始まる気がした。
 八階は最上階でペントハウス、つまりワンフロア全部が一室になっていた。サンルーム。素晴らしい眺望。広いリビング。二つの広いベッドルームと二つの豪華なバスルーム。コンパクトなダイニング。大きなクローゼット。和室は一つもない。…家族のための「家」でないことは確実だった。家具は作り付けであり、それ以外にもほとんど揃っていた。
 そして、香子の第一声だ。
「…一体、何に使ってたのか、聞きたくもないわね。ちょっと、あのベッド、ちゃんと新品でしょうね?」
「大丈夫。入れ替えましたよ。ただし、ベッドだけですけどね。でも、使ってるのはそのくらいでしょうよ。」
 意味あり気な台詞。薄笑い。
 嫌なやつ。なにがおかしいって言うの。香子はじろりと横目で睨んだ。慌てて首をすくめて目をそらす。気の小さな男らしい。
「これならいつでも引っ越せるわね。来週には入るようにするわ。光克の学校が始まる前に落ち着きたいし。」
「本当にここで一緒に暮らすんですね?」
「いけない?」
「…本当は。」
「えっ?」
「入居の際、本当なら小さなお子さんが居るような方は遠慮していただいてます。」
 香子はリビングの大きな窓から外を見ている光克の逆光気味の横顔を見ていた。聞いている。そう思った。なんと思うだろう。可哀想な子。前途多難。選りによって私と暮らすなんて。どんな子になるんだろう。
「………。」
「大丈夫。多田さんは特別ですよ。あの人、ここのオーナーのようなものでしょ?」
「…でも、あまり勧められませんよ、ここの環境。それは覚悟しててください。」
「…わかったわ。」
「光克、覚悟しなさいね。」
 よく通る声がリビングに響く。
「え。」
 光克に香子の言う意味が全くわからないわけではなかった。
 覚悟はとうにしていたのだ。死んでいるお母さんを見たときに。いや、違う。香子さんが僕を抱きしめて泣いたときに。でも、このときの香子さんの言い方は、はっきり、覚悟を決めろという言い方だった。僕はカーテンを両手で握りしめたまま、香子さんの目を見て、ゆっくり頷いた。

<2>につづく>>>>>

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■マース・赤い星-MARS-the red planet-1-■海神社 Kaijin-sya 第一版 2006/03/13 20080914二版

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