樹影海神社 Kaijin-sya

樹 影
Juei

海神 悠
WADATSUMI, Yuu

 慧と暮らし始めた。
 春先に救急指定の大学病院に担ぎ込まれた。その時、救急車の手配から始って、面倒なことは全部あいつがやってくれた。二週間後に退院したとき、車で迎えに来てくれて、そのままあいつの家に厄介になった。
 俺は体調が戻り次第、自分のマンションに戻るつもりだったが、あいつは部屋の改装計画の設計図を見せてどの案にするかと聞いてきた。どういう意味だと聞くと、今はワンルームの部屋を仕切って俺の部屋を作るという。どういう意味なのかもう一度聞いた。あいつはここで一緒に暮らすんだと言う。ばか言うな、と俺は笑ったが、あいつは本気だった。承諾もしなかったが、拒めもしないまま、俺は奴と、慧と暮らし始めた。
 元々余分な肉が付いていたわけでもないのに、抗生剤の点滴で六キロも体重が落ちて梅雨前の初夏の陽気が辛かったが、あっという間に何もなかったように俺は大学に溶け込んでいった。志峰の卒業生が結構来ていたから、それほど違和感もなかったのだ。強いて言えば教室に女の子がいることに慣れるのにちょっと時間がかかったが、慣れればなんて事はない。だいいち大した人数じゃなかった。剣道を続けるつもりでいたが、入院騒ぎで機会を逸してしまった。
 登校初日に宮崎先輩に取っ捕まって無理やり入会させられた空手サークルはスポーツと呼べる代物ではなかったから、仕方なく俺は小学生の時通っていた道場へまた通いだした。日曜の午前中低学年の子供を指導してくれれば、会費は要らないと持ちかけられ、俺はいい暇つぶしだと思って引き受けた。これは思ったより面白い暇つぶしだった。子供ってのはなかなか面白い存在だ。
 最初はうまく行っていた。…と、思う。少なくとも俺はそう思ってた。俺はあいつに感謝していた。これでもうパニックにはならないだろうと思えた。
 ――最初の兆候が出たのは大学の入学式の直前だった。香子さん――俺の後見人であり、保護者でもあり、元同居人で、実の叔母でもある――から電話が来て、入学式に出られないと謝られた。…妊娠中だという。来るつもりで準備していたが、医者から安静を命じられたと言う。ごめんなさいと香子さんは何度も謝った。平祐までが悪いと謝った。俺は、おめでとう、気にするなと言い、大学にもなって、入学式に保護者が来なくたって誰も気にしやしないよ、とそう言った。香子さんは言わなかったが、中学も高校の時も入学式に来なかった、そのことを、今回来ることで少しでも埋め合わせたかったのだと思う。
 俺は本当に気にしてはいなかった。始めから来るなんて思ってなかった。ただ、思い出してしまったのだ。あの時も入学式直前で発作を起こしたこと、あの、入学式の日の辛さ、あの時はまことがいたが、今はまこともいない。そして香子さんに子供が産まれる……。
 最初は判らなかった。呼吸が浅くて早まっていること。妙に部屋が広く感じられること、じっとしていられないこと。空気が悪いのかと思って窓を開けて換気したりしたくらいだ。でも、どんどん呼吸は浅くなってゆき、居ても立ってもいられなくなり、脂汗が出始めて、ようやく俺にも何が起こっているのか、気がついた。唾を飲み込もうとするが出来ない。まさか、今さら、そんな、とも思ったが、どうすべきかは覚えていた。俺は昔教えられた通りに実行し、なんとか最悪の事態は免れた。しかし、身体は疲れているのにも関わらず、頭の芯が冴えていて俺は満足に眠れなかった。
 俺はマンションに帰るのが怖かった。宮崎さんに入学式の日にサークル勧誘で取っ捕まったときは、渡りに舟状態だったのだ。その日から俺はサークル行事に引っ張り込まれた。コンパに参加させられ勧誘を手伝わされた。俺は一応隆市さんの手前、渋々という顔で手伝ったが、実際はとにかく誰かと居たかったのだ。家に、マンションに帰りたくなかった。
 風邪を引いたのは、花冷えの頃だったから、倒れるより半月も前のことだった。多分一日家で寝てれば直る程度の風邪だった。最初は。だけど俺は絶対に休みたくなかった。家で一日寝ている?…ゾッとした。日曜はほとんど道場で過ごしていた。とにかく家にいる時間を減らしたかった。微熱が取れなくなった。それでもほおっておいたらとうとう熱が四十度を越した。さすがの俺も寝ているしか出来なくなった。食事を二日取らなかったら、ますます起きるのが辛くなった。身体に力が入らない。どうしようとも思うが、思考が定まらない。電話が鳴り、取りに出て、受話器を取りそこねた。電話口で慧の声がしていた。ああ、慧だ、と思った。それから先は覚えていない。次に意識が戻ったときには、病院のベッドの上だった。慧が居た。香子さんには言わないでくれと、そう伝えて、また眠った。俺は久しぶりに肩の力を抜いて安心することが出来た。
 慧は毎日病室を訪れ、保護者代理として医師の話を聞いてくれた。慧は香子さんに連絡を取っていた。そして保護者代理として面倒を見る旨承諾させたのだ。マンションを出て慧と暮らすことは、香子さんも了解済みだった。香子さんと電話で話したとき、香子さんはただ俺に謝るばかりだった。泣いているようでもあった。平祐が情緒不安定なんだ、と弁解していた。『さとる兄ちゃん』がいて本当に良かった、と香子さんは言った。マースが一緒なら安心していられる、とも。
 
 慧があんなに忙しいなんて知らなかった。モデルのバイトをしているとは聞いていたが、それがあんなに不規則な仕事だとは想像していなかったし、あいつがあれほど勉強家だなんてこと、忘れてた。そういえばあいつは小学生のころから勉強を楽しんでた。遊ぶみたいにドリルをこなしてた。あいつが勉強で苦しんでたところなんて、見たことない。あいつは家に居るときには食事するか風呂に入ってる以外の時間はほとんど本を読むか、レポートを書くかしているようだった。俺はだんだん不安になった。あいつは俺が大学でうまくやってるのが判ると、安心したのか、ますます家を明けることが多くなった。まともな会話もなくなっていた。
 長沢が家へ来ないかと誘ってくれなければ、俺はとっくにまたパニック症候群を再発していたと思う。
 あいつの家は大きくてどっしりしていて、広かったけど空虚ではなかった。明るい酒好きの親父さんと料理の上手いおふくろさん、それにみゃあちゃん。長男の友人というだけで、何も聞かずにもてなしてくれる人達。
 不思議なことだけれど、ここには居場所があった。居ていい、というおおらかな保証があった。その場所の記憶を支えに俺は日々をやり過ごした。
 それ以外にどうすればいい? やり過ごす以外に? 俺は真面目に日々をやり過ごした。それ以上を望むのは過酷というものだ。ずっと続けていけば、きっといつか慣れてしまえる。はずだ。誰だって、抱えているもののはずだから、俺だってきっと慣れてしまえる、多分。
 いっきに十年くらい経ってしまえばいいと考えたりした。きっとその頃には忘れていられるはずだから。
 ぎりぎりのところで自分を抑える。思考を停止させる、無意識にブレーキをかける。身体は疲れているのに、十分な睡眠が取れない。目が覚めているのか眠っているのか考えているのか夢を見ているのか、自分でも不明なまま昼間停止させた思考の続きが無意味な映像を伴って襲ってくる。それは脂汗の浮かぶ恐怖を呼ぶときもあり、また、不確かな灰色の風景、ただ胸の痛む悲しみでもあり、記憶の中の過去の象徴的な繰り返しであったりもした。あるいは蠱惑的誘惑的な快楽を与えるときも、たまにはあった。けれど何故かその類いの夢だけが、目が覚めてからも鮮明で、俺に失ったものがなんなのかを突きつけてくるのだった。寝ているときの恐怖感も辛かったが、目が覚めてからの喪失感も同じくらい悲しかった。
 無意味な疲労感が身体を支配し始めていた。アルコールが短い時間であっても熟睡させることが判ってから、ベッドサイドから酒を放せなくなった。それさえ長くは保たなかったが。
 
 深草はとてもいい子だった。ちょうどいい距離を置いて俺と付き合ってくれる。多くは長沢や公村さんと一緒だったけど、二人でいるときにも別々の存在として近くに居る深草に俺は少し同類の匂いを感じていた。そのせいもあって、俺は深草には気を許していたんだと思う。アルコールさえ俺を裏切り始めたころ、俺は耐えきれずに深草をホテルに誘った。表面的にはぐでぐでに酔ってたけど、芯から酔ってはいなかった。どうせ家へ帰っても、一人なのだ、そう思ったら、無性に悔しくて、淋しかった。長沢達と飲んで、別れた後、偶然通りかかったその手のホテルの前で、俺は深草を抱きしめた。朝まで一緒にいてくれと頼んだ。どうせ断られると思っていた。あまりにも唐突すぎて、自分でも変だと思ったくらいだから。しかし、深草は逃げなかった。正面から俺を受け止めたのだ。驚いていたのは深草じゃなく俺の方だった。
 ……おそらく俺が深草を抱けたなら、愛せたなら、俺は少なくともアルコールだけは手放せたと思う。親近感、信頼感、好意、さらに愛情さえあったけど、俺には深草を抱けなかった。俺は深草の温かさの中で、泣いた。久々の眠りの中で。
 
 深草は、その後も皆でいるときには、まるで何もなかったかのように振る舞ってくれ、それでいて二人きりのときには、俺の孤独感を分かち合おうとしてくれているのが、痛いほど解った。でも、俺には一定の距離を置いてしか付きあえなかった。俺の深草への愛情は、恋愛とは違うものだ。友情とも言えないが、恋情とはもっと隔たっていた。何故かそれをいちばん解っていたのは深草自身だった。俺は迷っていたし、深草が必要だった。男女の間で相手が必要であるという状態がどんなものか解ってなかったわけじゃない。俺は卑怯にも友情以上を望んだのだし。だからこそホテルへ誘うなんて真似をしてしまったのだ。ラブホテル、今から考えれば物凄い皮肉だ。ラブ? それがどこに? ビジネスホテルへ行くべきだったかもな。
 でも、ラブなんてなくても、人には人が必要なときがあるんだ。その必要に迫られたことがない人はそれだけで幸福なんだ。人は愛がなくても生きられる。だけど独りで生きるべきじゃない。
 どうして深草みたいな可愛くてきれいで性格も好い子が俺なんかと一緒に居てくれるのか、解らなかったけれど、ホテルに誘って俺が結局何も出来ないままだったとき、何故か俺達はお互いにそれがベストだってことが納得できたのだ。本当ならもっと惨めなはずの、陳腐で不細工でげんなりするインテリアと照明とベッドの中で。お互いの親密さの必要性が、言葉で表された「ごめん」とか「いいの」とかの陳腐さとは別のレベルで存在していた。呼吸に波打つ胸や腕、傍らに眠る人の温かさ、額をなぞる指先の柔らかさ、俺を見つめる優しい瞳、俺にとっては、それは、紅い唇や柔らかな乳房やカーブした腹や丸みを帯びた腰、そんなものよりずっとずっと切実な魅力に満ちていた。深草は綺麗だった。あの貧相な暗闇の中で真珠色をした蛍みたいに発光していた。触った手が貼りついてしまうような肌をしていた。俺は巣の中のひな鳥のようにあいつにわがままを押し付け、あいつは表情一つ変えずに俺に餌を与え続けた。まるでそれが自分の義務ででもあるかのように。



 
 深草と肌を合わせたのは、その夜だけだ。
 俺が再びそれを求めても深草は拒まないだろうと判ってはいたが、それが出来るほど卑怯にはなれなかった。それに、俺には解っていたのだ。温かさ、その記憶だけで満足していられる日々も長くはないと。
 深草や長沢に対する感謝は、それを素直に表現できない分だけ、慧へと向けられた。焦燥、嫉妬、憎悪、そして哀願。自分の中のどろどろした部分が全て慧へと噴出する。いや、しようとする、だ。吐きだしてしまうにしても、出口はなかった。それは用意されていなかった。かつて、そして高校時代あれほどの時を一緒に過ごした相手の、たった一年後の変貌。俺はとまどい、困惑した。共に暮らしながら、会話どころか、ほとんど顔を合わせることさえない生活。頭がおかしくなりそうだった。
 一緒に暮らし始めて二度目の冬、俺はとうとう覚悟を決めた。正月が過ぎてからこっち、ろくろく眠ってない。学校が始まるまでにはまだ間が合った。何の用があるのか、昼間は出かけて夜遅く帰る慧。こんなことなら隆市さん達に誘われたとき、スキーに行くことを承知すれば良かったと散々後悔していた。
 かつて独りで過ごした年末や正月の辛さを知っていたから、俺は慧にそうは出来なかった。去年はそれなりに楽しく過ごしていたのだし。……そう思っていたのは俺だけで、たぶん慧は退屈していたのだろう。正月の東京なんて、何にもない。平日よりもひどい。良いのは空と空気だけだ。狭い部屋に俺といたって、おもしろくもおかしくもない。そう思ったって当然だ。だけどそれぐらいなら最初から友達と旅行でもなんでも行ってしまえばいいんだ、そうすれば俺だって勝手にやったのに、慧は律義に出かけては帰ってくる。夜、遅くなっても、必ず。
 夜、家にいるときは自分の部屋でヘッドフォンを付けてなんか聞きながら本を読んでる。酒を飲んでるときもある。あいつはなんのために俺を呼んだんだろう?わざわざ部屋の改装までして。幼なじみの義務感?見張り?まさか香子さんに頼まれた?それとも?………慧は知っている。何故俺がパニックに陥るようになったか、その理由、どうすれば起きないのか、も。昔、俺を助けたのはあいつで、そして今回もやっぱりあいつだった。かつてパニックの度ごとに、俺はあいつを求め、あいつは文句一つ言わずに俺をなだめた。………もちろんあいつは知らない。俺が再びその発作とぎりぎりのところで闘ってるなんて。俺は言う気はなかったし、知られたくもなかった。言ってしまいたい、全てぶちまけて側に居てくれとすがりつきたい気持ちを今のあいつに知られるくらいなら、死んだほうがマシだ。………だから、俺は出て行くことにしたのだ。こうなってはここもあのマンションもさしたる違いなんて、ない。パニック発作で死んだやつなんか居ない。たぶん。あのマンションなら広いから、誰か泊まらせたって、どうってことはない。……その気になれば罪悪感を持たずに付きあえる相手だって、たくさん居る。…はずだ。
 荷造りは簡単に済んだ。スキーバッグを広げて手当たり次第放り込む。そして俺は振り分けた部屋の手前に作ったテレビとソファと低いテーブルだけのダイニングスペースに特級のウイスキーと氷を用意して慧を待った。
 慧は九時ごろ帰ってきた。
「お帰り。風呂湧いてるけど?」
「ああ。……かたしとくよ。」
「…じゃ、頼む。」
 いかにもテレビを見るためのような顔でそこに陣取った。あいつが風呂から出てきたとき、氷の入ったグラスを渡して
「たまには付きあえよ?」と言ってみた。
 テレビでは数年前にかなりヒットしたSF映画がやっていた。たぶんそのせいもあったのだろう、珍しくあいつは俺の隣に腰を下ろした。最初に渡したグラスは、飲みやすい薄い水割りだったが、俺は慧が飲み干すのを見て待ってましたとばかりにさっと作り替え、意識してだんだん水割りを濃くしていった。映画なんかほとんど見てやしなかった。もうすでに映画館で二回も見ていたし、確かその時だって一緒に見たのは慧だ。あの頃はうまくやれてたのに、どうして今は? …解らない。何が悪い? それとも俺が変なのか? 一緒に暮らしてるんだからもう少し、せめて会話くらいあってもいいんじゃないか、そんなふうに思うのは変なのか? …俺はだんだん自信が無くなってゆく。香子さんとの生活を今さら否定はしない。どんなに苦しいことがあったにしても、俺は香子さんを好きだった。慧と会えて嬉しかった。どんなに素晴らしい完璧な家庭と入れ替えてやると言われても、断るだろう。だけど、自分の「生活」が「普通」でなかったことは知っている。それが俺を不安にさせる。基準が解らない。自分の感覚を肯定できない。何をもって判断していいのか、その判断を信じていいのか、自分で自分がコントロール出来なくなる。…相手が慧なら尚さらだ。いちばん解っていたはずの相手、いちばん気を許した相手、いちばん信頼していた相手、兄のように慕っていた相手、…その慧が、今は行きずりの他人よりも遠い人になりつつある。そんなバカな!
 俺は納得が出来ないでいる。どうしても!
 映画が終わるころには、慧は四、五杯の水割りを飲み干していた。さすが特級だけはあった。飲み口の良さは、俺にも良く解った。普段特売の酒ばかり飲んでりゃ当然だが。気をつけなけりゃ、自分が先に酔っちまいそうで、慌ててセーブしたほどだ。
「吹き替えも悪くなかったな。」
「ああ、思ったより良かった。真面目な台詞だからかな。スラングとかも少なそうだし。」
「SFは案外吹き替え向きなんだよな。生活感薄いから。」
「それは言えてるかな。」
 慧はまだグラスを手にしていた。俺は黙ってグラスを寄越すように合図し、慧はグラスを寄越した。二センチほど酒を注いで、氷と水を足す。ぐしゃぐしゃとかき回して、慧に渡す。
「…こないだ読んだSFにさ、おもしろいシーンがあったんだよな。……。」
 俺は自分のグラスを玩びながら、慧に近づいた。
「……ふーん?」
 慧の表情は変わらなかったが声にかすかな警戒心と好奇心が混じる。
「……俺さ、あんなの嘘だと思うんだよ。」
 俺は声を低めて言うとさらに近づいた。
「……。」
「だからさ、試してみたいと思ってさ。」
「……何を?」
 慧の声は一段と低かった。
「何をって、その本に出てたことをさ。」
「本ってなんだよ?」
「なんかSFだよ。お前の棚にあったんだから。」
「俺の棚にある本が全部SFってわけじゃないだろ。」
「ああ、そんなこと、今はどうでもいいからさ、慧、ちょっと手を貸せよ。」
 俺は慧にほとんど密着していた。
「……?」
 眉をひそめて警戒気味の慧の手を俺は脇から勝手に取った。
「へへ…。」
 俺はわざと冗談のように笑って見せた後、おもむろにその手にキスした。慧が一瞬硬直するのが解った。俺は手を引くのじゃないかと思って、痛くない程度にはがっちり腕を掴んでいた。しかし、案に相違して慧は手を引かなかった。じっと凝固したみたいに俺を見てた。俺はそれを意識しつつ、慧の手のひらの中心に舌を這わせ、キスを繰り返す。暖かい手を、腕を掴んでいるのは、気持ち良かった。俺はほとんどあいつにのしかからんばかりの体勢だったから、半身であいつの体温を感じていた。それはやっている行為よりも俺を酔わした。あいつの腕をそのまま抱きしめてしまいたかった。そのまま俺の中にしまい込んでしまえたら、と思った。動かずにいるあいつに、そう、出来るかも、と思った。俺は手から唇を離し、そのまま抱え込むように裸の胸へ導いた。シャツのボタンは外してあった。俺はその気だった。みぞおちを走る奇妙な安堵感。そしてその後を追うようにせり上がってくる欲望。俺はあいつの腿の上に馬乗りになると、さらに手を押し下げた。
 右手であいつの左手を押さえて体重を掛ける。俺はあいつにキスした。当然応えるだろうと、そのときにはもう、思っていた。しかし、唇が触れた途端、あいつは、立ち上がった。…いや、立ち上がろうとした。立ち上がろうとして、くらりと揺れた。そして気がついたんだと思う。
「…何の真似だよ?」
 苦々しくそう言った。
「…こういう真似だよ。」
 俺はぼそっと言った。…失敗したのだ。
「…判らないなんて言うなよ? …こういう真似だよ。判るだろ?」
 喉の奥から苦い笑いが湧いてきて顔を歪ませる。
「…で? どうするんだ?
 立ち上がって、俺を振り払って部屋へ戻るか?」
 俺は慧を見上げて言った。
「……。」
「いいぜ。そうしろよ。俺はどかない。慧がどかせりゃいい。出来るだろ? 簡単だろ? 押しのけてでも、突き飛ばしてでも、殴ってでも、好きなようにしたらいい。俺は抵抗しないから。」
「……。」
「それが返事だと思うことにする。」
「…返事?」
「そう、俺のこの、無様な求愛に対しての。」
「…求愛…?」
 慧は口の端で笑った。俺は身内がカッと燃えるのを感じた。恥ずかしさ四割、怒り六割って感じだった。
「そうだよ! 求愛だよ! 他にどう言えって言うんだ!」
 俺はあいつの胸ぐらを掴んでた。
 頭が変になりそうだった。いや、とっくに変だった。勝てる賭けだと思っていたのに、実際はジョークにさえならなかったってわけだ。いったいこの悔しさはどうしてなんだろう?どうしてこんなに悔しくて悲しくて、――淋しいんだろう?
「……ああ、もう、いいよ…。判ったよ。良く判った。」
 俺は掴んでいた手を離した。……こうなってみれば、勝てない賭けだったなんてこと、ずっと前に知っていた気がする。目の前にある慧の胸を見ながら、そのまま、そこへ倒れ込んでしまいたいのに、泣きたいほどそうしたいのに、あんな浅ましい真似は出来たくせに、そんな簡単なことは、俺には出来ないのだった。すぐ前にみぞおちを走った欲望が、今は嫉妬に変わっている。受け入れて欲しいと懇願することも、ただ、欲情に流されることも、互いに背を向けて立つことも、どれも選べない自分、その自分が出来ない行為を、誰かがあの胸でしている。誰かが選ばれている、そう考えること、それをうらやんでしまいそうな自分、紛れもない嫉妬だった。
 俺は何よりも自分自身に耐えきれず、さっと立ち上がった。何も、誰も、見ずに。
「…何が判ったんだよ!?」
 慧がそう言って、俺の手首を掴んだ。
「…うるさいよ。」
 俺は慧の手を振り払った。そして乱れていた服を整える。
「だから、慧が俺に興味がないってことが判ったんだよ。その通りだろ?」
 慧は諦めずにまた俺の手を掴む。…うんざりした。
「いいから、離せよ。もう、どうでもいいんだから。」
 捨て鉢にならないように、冷静に聞こえるようにと願ったけれど、成功したとはとても言えなかった。
「どうでもいいってこと、ないだろ!?」
 なんで慧が怒るんだ? 振られたのは俺だろ? 放っておいてくれればいいんだ。
「…俺はバカな頭で考えた、やれることをやってみただけさ。お前にとっては笑い事なんだろ。だけど俺にとっては笑い事じゃなかった。」
 手を掴まれたまま、俺はあいつの目を見て言った。
「……。」
「明日、出てくよ。わざわざ改装までしてくれたのに、悪かったな。請求してくれるなら、バイトして払うよ。…家賃も足して良いぜ、一年と…八ヶ月分か?…すぐには払えないけどさ。」
 何もかもが終わってしまったような気分がした。掴まれた腕を見ながら投げやりに聞こえないよう、冷静に聞こえるよう願いながら台詞を続けた。
「…もう、いいだろ? 手を離せよ。」
「…離せない。」
 俺はその一瞬本当に腹が立った。多分それが解ったんだろうな、慧はすぐに言葉を継いだ。
「離したら、出て行くんだろ? 絶対に離さない。絶対に、だ。」
 俺はもう、いい加減にして欲しかった。なんでこんなに俺を振り回すんだ? なんの資格があって、俺をそんなふうに引き止められるんだ? 何の興味もないくせに。居てもいなくてもどうだっていい相手になんでそんなことを言うんだよ!?
「いい加減にしろよ!? 何考えてんだよ!? 香子さんに頼まれでもしたのか!? もう、病気なんてとっくに完治しただろ? もう、ここに居る必要がないんだよ! 心配はありがたいけど、もう、大丈夫なんだ。これじゃ、お互い重荷になるばっかりだろ? 俺はもう、うんざりだ。」
「……うんざり、か……重荷なのか? 俺と住むのが? お前が出て行きたいと言えば俺に止められはしないが、…俺は居て欲しい。部屋を改装したことや、入院したことで負い目を感じてたんなら、そんなこと、気にしなくたっていいんだ。俺が勝手にやってるんだから。……どうしても気になるんなら、家賃としてもらってやってもいいけどな。何が嫌なのか、はっきり言えよ、そうすれば説明も訂正も出来るだろ? 何も言わないで、もういい、なんて言うのは止めろよ。」
「………。」
 結局丸め込まれるんだ。
 理屈で慧に勝てやしない。言って伝えることが出来るなら、あんな真似、しない。お前みたいに正直に、ストレートに人に思いを伝えられるなら、始めからこんな思いはしない。…そうは思っていても、慧がはっきり俺に居て欲しいと言う、その言葉が嬉しくて、俺の事を考えてくれているのが、泣きたいほど嬉しくて、俺は、結局、あいつの元を離れられない。
 結局、俺は妥協したのだ。
 手を放さずに俺を見上げる慧。俺は慧を見た。じっと、久しぶりにじっとあいつを見た。そうして目を閉じた。
「……パニックが…起きそうになるんだ…。」
「!」
「…だから…だから、一緒に……いや、いい。」
 俺には言えなかった。それは願望であり、願望でなかった。今、この瞬間をやり過ごすためになら、何でもしよう、しかし、この先は? いつまでこんなことを? そう考えると全てを拒絶したくなるのだ。顔を背けた俺を、慧は立ち上がり、手を放して抱いた。俺は悲しくなった。こんなことのために俺は何をしてるんだろう?
 慧は優しく包み込むように俺を抱き、納得したように言った。
「…早く言ってくれれば良かったんだ。気づかないで悪かった。…逆にワンルームのままの方が良かったのかもな。…言ってくれれば良かったのに…。明日、ベッドを移そう。今日は俺のベッドで寝ればいいさ。」
 慧はいいやつさ。だけど、俺は、あいつがいいやつだと思うことに、砂を噛むような気持ちを感じていた。

「幕間」<2>へつづく >>>>>  

「幕間」「樹影」「太平洋のアポロン」は、変則的な続き物になってますので、
ご注意ください。

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樹影■海神社 Kaijin-sya 第一版 2006/05/20



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